千住真理子『ヴァイオリニスト 20の哲学』を読んで

平成26年12月6日(土)
 ここ数ヶ月、わたくしにとって合唱とは何なのか、音楽とは何なのかを考える日々が続いている。高校の合唱部に入部して10年。歌う環境、自分自身の身の回りさまざまなものが変わっていったが。そして合唱への接し方も変わっていった。
 心から感動する演奏を聴くと、わたくしもそういう歌を歌いたいと思う。
 しかしながら、その境地に辿り着こうにも、わたくしの歩みはあまりに遅く、拙い。
 能力、環境、何を云おうが言い訳になってしまう。が、純粋に歌を歌うだけで生活することは出来ない。プロの音楽家だって音楽を演奏すうことだけでは生活が出来ないのだから当然と云えば当然である。そのような状況において、自分の目指す音楽とは何か、自分に出来る音楽とは何かを問い続けながら歌い、思索を続ける日々である。
 まだここに書きあらわすほどにはわたくしの考えが纏まっていない。敬愛する後輩に役職の引継として不十分ではあるが書いてみたが、あまりにも性急に書き殴ったため独我論を肯定するような物言いになって了った。それを書いても仕方がないので最近読んだ本について書く。
『ヴァイオリニスト 20の哲学』
千住真理子
平成26年11月21日発売
 合唱人だけでなく、音楽に情熱を注ぐすべての人に読んで貰いたい一冊。
 本のすべてが感動的、或いは示唆的であったり面白いものであるのかというと、そんなことは全然ないだろう。
 就中、後半の章に関しては、一見すると本の厚みのためだけにあるような貧弱な文章であるように感じる。
 最初の章ではリタルダンドにも注が入っているのに、第3章では既にある程度の譜が読めないと文章を理解できず、第13章では市販されている弦の特徴について言及している。
 しかしながら、著者が伝えたい想いはこの本を通じて満ちあふれており、文章構成が甘いだとか話の内容が薄いということは問題ではない。
 確かに弦についての話は弦楽器に縁のない多くの人間には全く関心を抱かない話であるし、弓の話に関しては高級な弓を欲すことの出来ない市井のヴァイオリニストにも無縁の話である。
 だが、殊に音楽に関しては如何なる妥協も許さない氏の情念が随所に満ちあふれているからこそ、その世界とは無縁の人間には退屈な話がこの著作には多分に盛り込まれているのだろう。それはカントの『純粋理性批判』の隅から隅までを読まなくとも、そのすべてを受容せずとも『純粋理性批判』はわたくしどもにさまざまなかたちで智慧を与えてくれるのと同様なのである。書かれていることすべてに共感できなくとも、著者の想うところに共感できれば、それでよいとわたくしは考えている。
 さて、著者の千住氏は12歳でプロデビューを果たした天才ピアニストである。ヴァイオリンを始めた経緯、音楽との向き合い方についてなど、プロだから…ではなく、特にクラシックやそこから派生した西洋音楽を愛する人間なら、少なからず共感できる部分があるだろう。
 著者の千住氏は、紛れもないgiftedである。音楽の才能も頭の良さも、私のような凡人とは明らかに
異なる。だから、経験してきたものや、その目で観てきた世界は私の世界とは全く別のものである。
 しかしながら、音楽に対するその真摯な姿勢は紛れもなく万人において普遍的な姿勢であるように思う。
 
 まず、大原則として私たち演奏家、音楽を奏でる人は「音譜を音にする」だけの「作業家」になっては空しいだけです。少なくとも私は、そのようなポリシーで音楽に携わっていますし、この本を読んでくださっている方には、ぜひ私の気持ちをわかっていただきたいと思います。
そこになくてはならないのは、心ときめくイメージです。
『ヴァイオリニスト 20の哲学』より
 演奏には技術が必要であり、その技術の習得にがむしゃらになって努力を積み重ねることが必要であると筆者は述べている。しかしながら、その技術は音楽を演奏するために生かされるものでなければならず、技術に先立ち、常に音楽への「イメージ」がなくてはならないことを何度も繰り返し述べているのだ。
 しかしながら合唱人の方はこの本を読む際以下の点に留意して欲しい。がむしゃらに練習することの意義を説く章がある。確かにその通りだとわたくしも思う。だが、がむしゃらに練習することが有用なのは、信頼できる師を有する場合、あるいは自分で自分を省みることの出来る能力を有している人に限る。間違った練習をがむしゃらにしていても時間を無駄にするだけだから。
 もちろん大多数の人にとって、器楽を伴う音楽と比べてはるかに敷居が低く、仰々しさのない気軽なものであることが合唱の魅力であることは疑いない。
 そのような魅力を感じて合唱をする人と、わたくしが渇望する(とわたくし自身は考えている)(わたくしの想う)至高の音楽藝術はどのように異なり、また重なり合うのかが、現在のわたくしの人生においての主要な問題なのだが、ここでは立ち入らない。
 あまり本の内容に深く立ち入ってもわたくしの書評の程度の悪さを露呈するだけなのでこのあたりにしておく。
 最後に。著者が自身の経験に基づいて「がむしゃら」に練習することやについて語るのを読んだとき、私の高校時代を思い出した。
 毎年三十人近くが入部するも、厳しすぎる練習に耐えきれず半数以上が辞めていく合唱部だった。
私の恩師はどうしてあんなに部員に練習をさせたのだろうと思っていた。全日本合唱コンクール、NHK全国学校音楽コンクール、それ以外にもヴォーカルアンサンブルコンテストや国内外のコンクールに頻繁に出場する。曲はいつも使い回しで、コンクールで歌う難解な曲は先輩から後輩までみんな同じ曲を歌えたりする。トロフィーの色のために合唱ををしているように思えた。それくらいのコンクール主義だった。
 しかし、その練習は、まさしく音楽のために、音に向き合うためにあったのだなと今更ながら思う。
 朝から晩までほとんど休みなく続く練習。夜が明ける前に家を出て、誰よりも遅く学校を後にする。どうして歌を歌うためにそのような生活を強いられたのか。
 それは、わたくしの恩師である先生が見ているとても美しい音楽を、私たちに見せたいと心から念っているのだ。
 この本を読んだからそう思ったのではないが、この本のおかげでわたくしのなかでそのような考えが確信に変わった。
 ただ演奏するだけでは想いは届かない。技術だけではいけないのは当然であるが、しかしながら藝術は技術を伴わなければ、相手に伝わらなければ意味がない。合唱を始めたのが中学であったとしてもせいぜい3年の経験しかない。15歳の少年少女がたった3年間で何かを知った気になれるほど音楽は甘くないだろう。
 だから高校3年間で「イメージ」を体現するための音楽の技術を身につける、あるいは技術を身につけるための所作を叩き込むことが必要である。そのような想いで、指導に当たっていらっしゃるのだと思う。
『ヴァイオリニスト 20の哲学』、ぜひご一読を。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク