Nコン、朝コンの季節。

平成26年8月5日(火)

 今年もやってきたコンクールシーズン。
 もうNコンの都道府県コンクールは終わってしまったというところもあるだろう。

 毎年7月後半から11月後半、そして1月から3月までがコンクールのシーズンである。小学校、中学校、高校が出場するNHK全国学校音楽コンクールと全日本合唱連盟(内実はほぼ朝日新聞社)が行っている全日本合唱コンクールの予選(各都道府県の合唱コンクール)、全国大会が行われる。全国大会まで進む合唱団に所属していれば、一年で一番密度の濃い時期であるかもしれない。また都道府県大会でコンクールは終わりという団体なら、シーズンは疾風の如く過ぎ去っていき、演奏会活動に向けて動き出す団体も多いだろう。

 もし今よりも上手くなりたいと思っている方がいるのであれば、是非様々なコンクールを聴きに行って欲しいと思う。私は神奈川に住んでいるが、東京、千葉、埼玉のコンクールは毎年のように聴きに行く。さまざまな団体の演奏を聴くことでいい演奏とよくない演奏がわかるようになるからだ。コンクールでは、学生の部門には学生の良さがあるし、一般部門にはそれ相応の良さがある。その際「どこの合唱団も上手だったなぁ」などと思うのも音楽鑑賞としては良いのかもしれない。しかし私はそうではなく、自分の全神経を尖らせて批判的に音楽を聴くことをおすすめしたい。

 音楽をよく聴いて欲しい。ちゃんと楽譜通りに歌えているか。正直なところ、作曲者が頭に思い浮かべるような、作曲に際して想起されるような音色を奏でている団体はほとんど存在しないはずだ。全国大会だって満足のいく演奏をする団体は金賞を取る団体に2,3あるかどうかだ。

 音響マニアやCDマニアじゃないんだから、そんなに敏感にならなくてもと思うかもしれない。しかしそれは間違っている。所詮学生なんだから、所詮アマチュアなんだから…という考えは捨てるべきだ。これはコンクールであり、スポーツだ。
 先頭打者がヒットを放ったあと、すかさずバントで塁を進める高校球児の魂は、競技が目的としているものを如実に現している。合唱のコンクールは芸術のコンクールではない。合唱は芸術性を内包している。しかしコンクールで体現される合唱は芸術ではなく、スポーツである。

 合唱コンクールの評価は技術だけではない。私が高校2年生の時の全国大会で聴いた「そのひとがうたうとき」を歌った宮崎学園の演奏は、まさに若い力が漲った芸術作品であったと思う。しかし それは確かな技術に裏付けされたものである。勿論完璧というわけでは無かったし、そのために1位を得ることはできなかった。演奏後の客席のどよめきから察するに、宮崎学園の演奏は観客の心に感動を与えたであろうことは想像に難くない。しかしそれだけを求めるのであればコンクールは成立しない。コンクールはあくまでも、そのような感動を巻き起こす演奏をするための、技術向上の場なのである。

 もし合唱コンクールが努力に裏付けされた技術を競うものではなく、単純に客の満足だけを競うコンクールであるのならば、パフォーマンス中心になってしまい音楽自体が陳腐なものとなってしまうであろう。また若い力が感動を呼び起こしやすいという意味において、壮年の合唱団より10代の若い合唱団の方が遙かに有利になってしまう(今だって十分その傾向はある)。
 技術重視のコンクールに害がないわけではない。若いかどうかは別として、単純に練習回数の多い合唱団は完成度を上げるという点においては非常に有利だ。こういう合唱団は2,3曲だけを長期間練習して臨んだ全国大会で感動的な名演奏をしていても、演奏会にいってみると発声などの基礎力がなく残念なことも少なくない。
 選曲も「勝てる曲」を選ぶ傾向にあるため聴いていても興味が沸かない作品ばかりだったりする。特に男声合唱はその傾向が強く、酷い発声を補うためなのかやたらと叫んでばかりの曲が多い。作曲した人間も合唱連盟の重鎮だったり、日本の合唱界に寄与した人間ばかりだからだろうか。大人数の男声合唱で叫んだりすれば、確かに演奏効果は高いかもしれない。しかしこんな曲でいったい彼らのなにを表現できるというのだろうと私は思う。

  話を戻そう。コンクールはなるほど確かに表現の場であるが、それは感情表現を吐露したり、共感を誘ったりするような表現ばかりを競っているのではない。あくまでも音楽の技術をその中心に据えて表現しなければならない。

 では何故技術を求めなくてはならないのか。

 私の母校のOG合唱団は仕事よりも合唱に生活の比重を置く方々が多いが、それでも全国大会まで進めないことは少なくない。しかし何度も述べるが、コンクールの出場団体はほとんど全ての出場者がアマチュアである。それぞれの仕事があり、生活がある中で、時間を捻出し、合唱活動をする。そしてコンクールに出場するのである。所詮は趣味なのだ。

 だが、コンクールは「合唱技術の向上を目指し合唱音楽の普及向上を目的」※参考としているのである。この「合唱音楽の普及向上を目的」としているところが非常に重要なのだ。
 普段は崇高な音楽芸術の高みを目指しているわけではないとしても、コンクールといういう音楽の競技では、可能な限りの技術的高みを目指すべきなのである。

 あなたは年に何回合唱の演奏会にいくだろうか。私は20~30回ほど聴く。高校・大学生の頃はコンクールも合わせれば60回以上は演奏を聴いていた。
 しかし聴きに行った演奏会の大多数は全国的に有名で高い演奏水準を誇る合唱団、知り合いの居る合唱団、演奏会で好きな曲・興味のある曲を演奏する合唱団に限られる。
 きっとあなたの地元で毎週のように開かれているだろう地元のシルバーコーラスなど年に1度も聴かない(聴いたとしても知り合いが居るのが理由だろう)。

 それは何故だろうか。彼ら/彼女らの演奏に興味が無いからである。
 自分が歌っている時、合唱は一輪車で遊んでいるような状態、あるいは気の合う仲間と碁を打つようなものだ。
 しかし聴くときは全く違う。囲碁教室ですぐ横の席で打っている人の対局を観ることはあるかもしれない。しかし大会でも無い限りわざわざ他の囲碁教室に行って見知らぬ人の打つのを観たりはしない。棋譜を勉強するのは、それが自分の為になるからであり、役に立たないものには興味はないだろう。
 草野球やフットサルだってそうだ。休日は草野球・フットサルをする。そういう人は多いだろう。しかし自分がプレーするのでもないのに赤の他人のゲームを好きこのんで観戦する人はそう多くはないだろう。
 合唱も同じなのだ。他の人の演奏など多くの人間にとってどうでもいいことなのだ。中には「私は違う。あなたと一緒にしないで欲しい」と思う人も居るかもしれない。しかしあなたは、あなたが練習する公民館で歌っている他の団体の演奏を聴いたことがあるのだろうか。私はない。

 しかし残念なことに、合唱は、いや合唱だけではなく全ての音楽一般にいえることであるが、演奏者とともに観客(聴衆)が必要なのである。音楽という芸術(ここでいう芸術とは人間の営みの形式としての芸術活動のこと)は時間芸術であり、その場に居合わせた人間しか享受することはできないのだ。
  音楽は再現性を有しない一回性の芸術であり、生産されるとともに打ち棄てられていくものなのである。

 故に合唱は演奏の機会を得なければ歌う理由が著しく減退してしまう。自分たちが楽しければいいという考えが全く通用しないとはいわないが、そうであればコンクールには出場しないで欲しいし演奏会を催したりしないでほしい。
 でもコンクールに出たい、演奏会をしたいというのは自然な気持ちである。誰だって自分の演奏を聴いて欲しいのは当たり前だろう。

 だからコンクールでは「合唱技術の向上」を目指すのであり、それが「合唱音楽の普及向上」につながるのだ。
 そして、もっと上手になりたいと本気で思っているのであれば、コンクールを聴きに行くべきなのだ。多くの合唱人の努力の結晶を批判的に受け止め、自分の合唱の糧として欲しい。

眠れぬ夜に書いたら朝になっていた。

以上。

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