【所感】第17回桐蔭学園混声合唱部・女子コーラス部定期演奏会

平成26年12月16日(火)

平成26年12月14日(日)は衆院選だった。
昼過ぎに投票を済まして、2つの演奏会を聴きに行った。

 一つ目の演奏会は前日の深夜にFacebookで知った。情報をシェアしてくれた、バリトン歌手であり合唱指揮者である知人には感謝の念でいっぱいである。

第17回桐蔭学園混声合唱部・女子コーラス部定期演奏会

2014年12月14日(日) 
開場14:30
開演15:00
場所:桐蔭学園シンフォニーホール

桐蔭学園について

 桐蔭学園(公式サイト)  は小学校から大学までを擁する神奈川県屈指のマンモス校だ。昭和39年に設立された。高校野球ではひと枠しか亡い神奈川県代表を巡って、東海大相模や横浜高校と熾烈な争いを繰り広げている。またサッカーやラグビーも強豪として有名である。
 スポーツ強豪郷としての一面を持つ一方で、桐蔭学園は県内有数の進学校でもある。学年1000人を超す桐蔭は男女別学教育を行っている。東大その他の有名大学に進学する生徒は非常に多い。
 ただ、私の地元(桐蔭学園のある横浜市青葉区に隣接する川崎市麻生区)の人間からすると桐蔭は中学受験であればあくまでも滑り止め校である。高校受験でも成績上位者は桐蔭理数科より開成や筑駒を選ぶ。あるいは公立トップ校の併願校だ。私の地元は桐蔭の学生の通学経路に当たるため、素行の悪い生徒をごく希に見かける。そのためどうしても良くないイメージを持ってしまう。近隣の学校に良いイメージを持てないのはある程度仕方のないことだろう。
 しかしながら大半の学生はしっかりしている。桐蔭の学生はバスの車内でもよく勉強をしていて好感が持てる。中学生が座席を占領して顰蹙を買うこともあるが、バスが停留所に着いたときに高齢者が乗車してきたらさっと席を立つなど、気遣いのできる生徒は非常に多い。相応にやんちゃな生徒もいるが、全体としては教育の行き届いた良い学校であると思う。

桐蔭学園のコーラスについて

 桐蔭学園中学校・高等学校の生徒が(恐らく)合同で活動している。女子コーラス部は今回の演奏会で17回を数えるということで、歴史は浅いものではないと思われる。
 混声合唱部は創立50年を迎えた本年に創部した新しい合唱団である。

 私は桐蔭のコーラスは女声合唱だと思っていたので、今年のコンクールに混声で出場したのには驚いた。
 数年前、春こん。(東京春のコーラスコンテスト、旧東京ヴォーカルアンサンブルコンテスト)で桐蔭学園の女声コーラスを聴いた。発声が良く、とても印象に残る演奏だった。響きのある密度の高い地元の合唱団に出会えたことに喜びを感じた。
 私の母校は女子校から共学化して5年後に男子が合唱部に加わり現在は混声・女声・男声で活動している。個人的な意見ではあるが、桐蔭学園混声合唱部・女子コーラス部もそれぞれの合唱を大切にしていただけたら…と思う。


演奏会の感想

 当人達の目に入るかは分からないが、混声合唱部、女子コーラス部の皆様に向けて書きたいと思う。
 演奏会のアンケートには言葉がうまくまとまらず書き切ることができなかった。にもかかわらず今回も、ところによってはほとんどけなしているような感想を書き散らかしてしまい、合唱団の生徒にはには多少申し訳なく思う。誤字脱字が多いのは私に学がないのが原因だ。お許しいただきたい。感想に書かれていることが見当違いだと思うのであれば、おかしなことを云う人もいるものだと思っていただければと思う。

男声

 創部1年目とは思えない見事な歌声だった。
 テノールを中心に声の良い生徒が多い模様で、まっすぐとした声が会場を(半分くらい)響かせる。
 しかし個人技はどうでもいい。それよりも特筆すべきなのは中低音域における音程の正確さであろう。息が良く流れているからできるのかもしれない。
 男声合唱において、多くの合唱団は音記号の五線譜あたりの中音域は一般に乱雑になってしまうが、桐蔭の男子は音の輪郭が良く表現できていたと思う。とても正確かと訊かれれば勿論そんなことはないのだけれど、普通の男子高校生の歌で音階が音階に聞こえるというのは案外難しい。
 しかしながら「アナ雪」のメドレーで男の子のセリフが全く聞き取れなかった。地声を使った発声は練習方法を間違えるといわゆる男声合唱の汚らしい発声に陥るので、指導者の腕の見せ所である。

 男声を褒めちぎっても意味がないので、もう少し別の視点を。
 まず、リズム感が全くない。これは女性も一緒。練習方法が良くないのだろう。次に、高声部は支えがないため音程が狂いやすい。特にセカンドテノールは注意を。

女声

 少し軽めだが浅くない発声が特徴的だ。浦和一女の爽やかさ、栄東(中・高)の透明感ある明瞭な発声、そして青木恵子先生の合唱団のような艶やかでコクのある発声のちょうど中間くらい。私の好きな部類の発声だ。(埼玉の高校合唱に詳しくないと分からない感想で申し訳ない。興味があれば全国大会のCD等を買って聴いてみて欲しい。)
 また女声は英語の発音が美しい。英語の合唱曲は上手に聴かせるのが非常に難しいが、ハーモニーを構築する感覚に長けているようだ。外国語のポップス曲がもつ様式感?それっぽさは出せているように思う。
 アンケートにも書いたが、ソプラノはもう少し他のパートを聴くことが求められる。ポップス曲では、メロディーラインを歌うことが多いソプラノパートが引っ張ってゆくのは間違ってはいない。
 ポップスの主旋律を歌うときは、宗教曲や、いかにも藝術作品であるような堅苦しい合唱作品に求められる純正調の響きでは、音に躍動感が得られない。主旋律の動きは、例えば2度であっても平均律的な音程で歌う方が効果的であることが多い。
 しかしそうなってくると低音で音楽を支えるアルトとの関係が難しい。先ほども述べたが、桐蔭学園女子コーラス部はハーモニーが良い。しかしそれは良くアンサンブルできているのではなく、先生の良い耳で構築した音楽に乗っかっているだけである。自然と合うというのは良いことではあるが、全国大会に行きたいのであればもっと自分たちで音を聴き合わなければならない。
 ソプラノは自分たちが主旋律を歌っていても、自由奔放に歌うのではなく、常に低声部との距離(音程)感覚を持ち、その都度調整しなくてはならない。ソプラノがソの音を歌うにしても、アルトがドを歌うときとレを歌うときでは、主旋を歌っていても役割が異なるのだ。そしてそれを意識しつつも、曲によってハーモニーをはめ込んだ方がいいときと、躍動感を出した方がいいときは異なるので、練習時はそれをよく考えよう。例えば、低音のパートがドで伸ばしているときに、ソプラノがソファミレドと下降したとする。このときには純正調の関係で音を取ったのでは奇妙な音程になってしまう。しかし、それをゆっくりやってみたときは、純正調の方がしっくりくる。先生の指導の下、訓練された発声で歌ったら、自然とそうなるだろう。

 アルトは、狭い部屋で籠もって練習しているような歌い方をするのが残念であった。ストレートに遠くまで届く声を持った人もいたが、何分響きがない。もっと空間を意識して歌う練習を行うことが求められる。歌を届ける相手を意識して、pではその人にそばで訴えかけるように、fでは雄弁に語るように…と、50メートルくらい先に歌を聴く人を想定した歌づくりをしよう。
 混声・女声の両方を歌うことができるのなら、アルトは非常においしいパートだ。女声合唱ではハーモニーの要として、混声合唱では音楽に色彩を添える名脇役として機能する。 たまにやってくるメロディーをアルトが歌うときは、多くの場合においてその曲中で深い意味を持つ。ソプラノやテノールが高らかに歌う、或いはバス、バリトンが雄大に歌うのと異なり、アルトの音域で歌われるフレーズは優しさや哀れみなど深い感情を伴うからだ。合唱においてそのような多彩な機能を担うアルトパートは、マルチタレントであることを求められる。
 女声合唱でのアルトは、合唱の屋台骨である。あるいは根っこである。rootだ。音楽はそこに複数の音があるかぎり、音と音の関係性の上で構成される。アルトパートが歌うのは、多くの場合において他方の音を定義する音である。
 だからアルトは他のパート以上に「しっかり」と歌うことが求められる。他のパートはアルトを聴いて音楽をつくるのだ。
 もちろん合唱以外のパートがあるときはその限りではない。ピアノがあるときはピアノの音楽の上に合唱が成り立つ。これは平均律の音しか奏でられないピアノの方が、音楽の表現の幅が狭いため致し方ないことである。
 だが、それでもアルトは他のパートを操るパートなのだ。発声については具体的にどう歌えばいいのか素人の私にはわからないが、胸声を含む歌い方をすることはあっても、基本的には響きを持った頭声で歌うことが求められるのであろう。
 桐蔭学園のアルトに関して云えば、音のスケール感(デュナーミクではなく音程感)が足りない。男声の方が上手なくらいだ。発声美人(発声練習のときだけ上手で、歌になるとそれを生かせない人)にならない程度に、しかしながら必死に全音階、半音階の練習をして欲しい。

 メゾソプラノは率直に云って良くなかった。ソプラノが先に歌い、ユニゾンでソプラノと一緒に主旋律を歌うと、同じ音を歌っているはずなのに2群の合唱になってしまう。清廉でかわいらしいのに、声帯が締まっていて聞き苦しい声も聞こえた。
 メゾソプラノは混声のアルトと同じく、音楽の鮮やかさを決めることにおいて重要なパートである。また聴衆が感じるニュアンス(デュナーミクの意)は合唱の厚みと音の量感が重要だと思うが、それは真ん中のパートがどれほど良いハーモニーを構築できるかに掛かっている。しかし内声の音取りは難しい。パート練習でどんなに練習しても、外声の善し悪しによっては居場所がなくなってしまうこともある。しかし、この合唱団においてはそれ以前に自分の居るべき場所という感覚をもう少し理解した方がいいと思う。難しいことではあるが。
 ドとソの音が出ている時にミの音をを歌う時、少し高めのミから低めのミまでたくさんある中で、どのミを歌うのが適切なのか。こう考えるためには、まず同じミであってもそのミは常に一定なのではなく、時と場合により上下するということを理解しなくてはいけない。理解するためには実際に使い分けられている音楽をたくさん聴かなくてはいけない。
 私の話で恐縮だが、私の母校は女声合唱の名門校で、先輩方は大変に上手であったが、その素晴らしさを理解できたのは、好い演奏悪い演奏、とにかくたくさんの演奏を聴いてからだ。先輩達にできて自分にはできないこと。上手な合唱団にできてそうではない多くの合唱団にできないこと。実力差があるのはわかっても、その理由をわかるようになるためにはとにかく観察する必要がある。
 内声を歌う人は(もちろんそうでない人も)、他の人以上に演奏会に足を運び、自分の歌うパートがどのように機能しているのかを知って欲しいと思う。
 

その他

ユニゾンは結構キレイ

 いろいろ述べたがユニゾンは結構上手だと思う。ユニゾンは簡単そうにみえて実は非常に難しい。ぴったりと声が合わないとノイズになるからだ。臆病な歌い手が自分の発声や音程が悪いのを隠すために声を引っ込めて歌うと、暗い響きや後ろに引っ張られるような響きが混じってしまう。実社会では私たちが忌避し拒むものであるところの、全体主義の美が、ユニゾンでは遺憾なく発揮されるのだ。

言葉・発音について

言葉の発音はできたりできなかったりだ。外国語でも日本語でも、良くできているときとそうでないときがある。2ndStageは練習不足の感が否めなかったので置いておくとして、全体的にまだまだ子音の発声が統一できていないように思う。しかしできる曲とそうでない曲があるということを考えても、子音を合わせる練習は全くしていないのではないようにも感じられる。

リズム感がない

 ではなぜ子音が揃わないのか。それには2つ理由がある。ひとつはリズム感がないこと。そしてブレスができていないことである。ブレスが下手なのは典型的な発声美人の徴候だ。すぐに改善すべし。
 リズム感がないのは練習の仕方の問題だ。小節という単位があり拍という単位がある。小節の長さは数字で表せるが、拍の長さはその小節の長さに規定される…のではない。一拍の長さは常に一定なのではなく、その拍で表現された音楽によっていくらでも伸び縮みする。
 が、しかし、それは音楽の表現の段階である。その拍の長さは個々人が勝手に行うことではなく、指揮者が音楽を演奏する際、その都度状況に応じて決めることである。もちろん一般的なルールというセオリーはあるので、それに従ったり抗ったりしながら音楽はつくられてゆく。
 一拍の長さは歌い手が決めるものではない。それゆえに、普段の練習においては「正確な」拍の長さを以て歌うことができるようにしなくてはならない。
 なぜなら、リズムこと音楽において最も重要だからである。
 音楽は構成するのはリズムと音だ。リズムのない音楽を考えてみて欲しい。いや、考えられないだろう。
 実際の演奏においては伸び縮みする拍の長さは、その曲の持つリズムの中で拍の長さに緩急をつけたりしているに過ぎない。
 だから、普段の練習ではメトロノームのように正確なリズムで歌えるようにしなくてはいけない。
 パートリーダーさん、学指揮さん、メトロノームは使っていますか。使いましょう。

 つぎに、ブレスについて。ブレスは発声練習ともリズムの練習とも一体となっていて、非常に教えるのが難しい。そして困ったことに、発声やリズムと異なり、ブレスの長短は集団で合わせなければ意味が無いのだ。
 発声やリズムは個々人の練習の成果を全体で歌うときに出し合うことでも発揮させる。しかし、ブレスに関してはどんなに訓練をしてもいっしょに合わせてみないことには揃わない。曲ごとに音のシラブルは異なるからだ。
 歌だけではなく全ての音楽は、詩があろうとなかろうと音節を持つ。ドレミファソと演奏するときにどこで区切るのか、あるいは区切らないのかは音楽によってその都度異なる。
 またブレスは音のニュアンス(デュナーミクの意)や日本語的な意味でのニュアンス(意味合い、オーバートーン<倍音の意味ではなく含蓄という意味>)によっても変化する。まるで耳打ちするかのような淡いが刺激的なp。口ではなく心で訴えかけるときにわずかに口から発せられる、相手の心にダイレクトに響く張り詰めたp。同じpでも変わるし、もちろんmfやffでもブレスは全く異なる。
 それゆえに曲ごとにブレスの仕方は変わる。必要な量、速さ、子音の処理。その都度求められるものが変わってくる。その曲の、その場所で、どのようなブレスが必要かは自分たちで考えたり、先生方の指示を仰いだり、実際に歌い合い聴き合ってみたりして決めていく必要がある。

 また、ローテーションブレス(カンニングブレス)も重要だ。誰がどこで吸うのか、あるいは伸ばすのかはちゃんと決めよう。どこで何人ブレスをするのかを決めて、それを裏切らないようにしないと音楽がやせ細ってしまうから。

 その他細々としたこと。ピアノ付きの曲が多いためか強拍が意識できていないと云うことはなかったと思う。拍通りに歌うことができるのは、当たり前だ。しかしその当たり前ができることは非常に良いことである。音をどれくらい保つか、ということもブレスと深く関係する。音楽は歌い始めだけでなく歌い終わりをどう処理するかも大事だし、さらに云うと休符も音楽である。楽譜が破けるくらい研究しよう。

聴くということ

 コンクール自由曲はピアノ付きの曲を選択していた。気になったのは、ピアノが入るとピアノの音楽のスケールに合わせた歌になってしまうということだ。現代曲であればピアノと合唱はアンサンブルの関係にあり、対等な関係だ。どちらが主でどちらが従であるというわけではないだろう。だから合唱がピアノの伴奏になることだって十分あり得る。
…そういう話は別として、今回歌ったコンクール曲ではピアノがホールを響かす範囲内でしか音楽を創ることができていなかったように感じた。ピアノを聴きすぎるあまり合唱に主体性が失われてしまっている。ピアノとうまく合わなかったため、合わせようとしてデュナーミクが等閑になってしまったのかもしれない。
 音楽は聴き合いながらつくっていくものである。しかし、それはお互いが引いて合わせるという遣り方ではいけない。出過ぎてしまったら引けばいいのだ。混沌から美しいものが生まれることはあるが、無からはなにも生まれない。聴き合うというのは魅せ合うことに他ならないのだ。
 抽象的になってしまった。申し訳ない。

OG合唱団について

 なるほど彼女たちはそれなりに上手だ。しかし音楽的な価値は無価値と云わざるを得ない。
 厳しめに云う。あきらかにバランスの悪い音楽。déracinéeの如き音楽だった。アルトの支えがなく、音程も不安定だ。
 彼女たちは自分たちの出番までずっと客席で聴いていたので、歌いやすい環境ではなかったと思う。後半になると良い音楽の兆しが見えてきた。しかし、音楽は時間芸術である。スポーツとしての音楽ではないのなら、時という巻き戻せない空間のなかでの表現活動を、決してやり直しのきかない、一度きりという音楽の、そうであるからこそ尊いものであるところの崇高さを存分にかみしめて歌って頂きたいと思う。
 もう少し理性的(?)に所感を述べる。やはり序盤で会場を響かすことができなかったのが演奏が良くなかった要因であると思う。ソプラノは声のブレンドが悪かった。内声は特に初めの方は生声っぽい感じがした。音の輪郭がぼやけていて、どこを歌っているのかよくわからなかった。アルトがしっかり歌えていないのもアンサンブルを悪くする大きな要素であったが、ソプラノの声量だけ大きかったことがバランスを悪くする一番の要因であったと思う。
 とはいえ、音楽が進むにつれハーモニーはだんだんと良くなっていった。パートを越えて声に統一感ができ、音楽がまとまっていった。
 女子コーラス部OG合唱団のポテンシャルは高い。真剣に音楽に向き合えばどこまでも成長できる合唱団であると思う。
 今度は、あなたたちの「音楽」を聴きたい。

 卒業生の合唱団は、気の知れた仲間と楽しく歌える掛け替えのない場所になる。しかしながら、どのような姿勢で音楽と向き合っていくかを決めてゆかないと、音楽のようにその時々だけのものになってしまう。音楽は時間藝術であり、その場の聴者と奏者だけがその美を享受することができる。しかしながら先生や仲間との繋がりは音楽のようにその場限りのものではない。プロの音楽家でもなければ学生のように音楽だけに全力を尽くすことはできない。絶対にこうあるべきだ、ということはできないけれど、私は音楽のように、「一度きり」を何度も繰り返していく、力尽きたらそこまでというOG合唱団であって欲しくないと思う。だからといって全力で音楽に向き合ってきた仲間と、なれ合いの音楽をしたいかというとそんなことはない、とも思う。卒業生の合唱団は、さまざまな困難を、一体感から生まれるこの上ない喜びと共に味わうことになるだろう。ぜひ、頑張って欲しい。

プログラムについて

 殆どの聴衆が家族と友人なので、ポップスを中心とした選曲であるのは良いと思う。聴きに来た人々の聴きたい音楽を提供するのは非常に大切なことである。
 しかしながら、歌っている生徒自身、つまり自分たちの成長を考えると、合唱組曲でなくても構わないが、同じ作曲家の作品を幾つか取り上げる、時代や様式の異なる音楽に触れるなど、もう少し音楽的収穫を得られる選曲でもいいのではとも感じた。
 というのも、聴衆の立場からすると確かにポピュラーソングはよく知っていて取っつきやすい。しかし聴衆の期待を超えた音楽を提供するのも奏者の役目なのではないだろうか。そこに生徒の成長という役目を果たすことができるのであれば、尚良いことだと思う。

コンクールについて

 全日本合唱コンクール全国大会で金賞・文部科学大臣賞を取ることを目標に頑張るのは非常に熱意があって素晴らしいことだと思う。
 コンクール偏重主義を批判する言葉は良く訊かれる。しかし私は、コンクールと、そこで培った技術を披露する演奏会の二本立てで活動するのであれば、学校教育の延長上である部活動における演奏活動としては、それで良いと考える。
 音楽にはさまざなな側面があり、演奏それ自体に重きを置くもの、スポーツ競技のように結果を求めるもの、とにかく歌うということに念頭を置くもの、実にさまざまだ。合唱コンクールに出場するのであれば、結果至上主義はある程度致し方ない部分はある。コンクールは順位を競うものでなく、演奏を披露するところだ。しかし演奏には善し悪しがつきものである。そうでないとお思いの方は一生幼稚園児の歌う「もろびとこぞりて」でも聴いていて欲しい。きっとご満足だろう。その演奏の善し悪しを、審査員の経験から判断し、順位、あるいは優劣をつけるのがコンクールである。コンクールの場において評価されることを拒んだり、下された評価に対して出演者が難癖をつけるのは間違っている。音楽のコンクールにおいて優劣というのは、あくまで審査員の経験や心証から判断されるもので有り、現に我々も音楽の善し悪しはそのように判断している。音楽は機械で音程を計測したりして表出されるデータは、改善点を考える上での参考にはなるけれども、演奏の善し悪しを決める本質的な判断材料にはなり得ない。
 しかしながらそれでもコンクールに出たいのであれば、大いに結構である。コンクールの講評を読むと、時に人間の心の移ろいやすさや、判断の誤謬、恣意的で、人を信じられなくなってしまうような大人達の醜態を見ることがあるかもしれない。もしかするとそこにその審査員の音楽に対する信念があるのかもしれない。私とあなたとの音楽観は一致しないのであるから、それは当然であろう。審査員の信念が他人には受け入れがたい信念であればあるほど出演者に理解されないだけかもしれないので、あまり否定的に受け止めるのではなく、それはそれとして素直に甘受するべきである。
 しかし優しさや厳しさ、醜さや美しさ、尊さをもったさまざまな講評と、誰の目にもあきらから順位や表彰という形式的な審査結果は、コンクールに出場した人間の音楽にさまざまな利益をもたらす。いや、これらのものが直截的に利益をもたらすのではないが、コンクールを通じて得る音楽的な恩恵は計り知れない。
 音楽は聴者と奏者がいる。音楽があるところにはからなず音楽を聴く者がいる。音と時間を使う藝術である音楽は、かならず聴かれるべき聴者がいる。その聴者に対して、奏者の音楽は不断の進歩を要請される。その進歩のきっかけを与えてくれるのがコンクールである。
 音楽を伝えるためには、あるいは音楽が藝術としての音楽であろうとするのであれば、技術が必要になる。その技術を養うための方法のひとつにコンクールがある。
 高校、大学、社会人…死ぬまでコンクールに出場し続ける人もいる。コンクール偏重主義を批判する人は、このような競技としての合唱は合唱ではないと云いたいのであろう。私もその意見は一理あると思う。(しかしながらスポーツ競技として音楽を愛好するという人を否定することもできない。そのような音楽は自己顕示のための音楽であるという批判ができなくもないが、私が思うに、そもそも音楽は自己顕示的でないわけがない。)
 部活動におけるコンクール偏重主義が批判されるべきなのは、それが生徒の以降の音楽が、コンクールのための音楽になってしまうという契機を与えてしまうということが問題なのである。
 だが、私は思う。技術の習得のための音楽であることを理解できるよう指導者が誠意を尽くす限りにおいては、コンクールは奨励されるべきものである。
 それは、先に述べたように音楽は技術が必要だからである。技術のない音楽。あなたはそのような音楽を聴くであろうか。例えば、老人ホームで入居者が歌う音楽は、第二の人生を謳歌するかけがえのない音楽である。しかし、その音楽の聴者は、歌い手である自ら自身に他ならず、自己でないところの他者を想定したものではない。あるいは、風呂場で歌う、酒に酔って一人で歌う、そのような歌は、自分自身に歌う歌である。あなたはそれらの歌を好きこのんで聴くだろうか。歌は、歌として他者に聴かせる限りにおいては、技術を伴わなければならない。自分が聴きたくないものは他人も聴きたくないのだ。
 だから音楽は常に聴者を想定して演奏しなければならないし、音楽の技術は不断の努力を重ね、日々向上させなければならない。
 だが音楽の基礎を学ぶことは大変である。私は合唱を始めて10年が経つ。しかし特段優れているというわけでもないし、むしろ音痴に部類される人間だ。正規の音楽教育を受けたことがないということもあり、人に聴かせられるような歌声ではない。合唱が好きでも、努力をしなければ上手くならない。そしてこの努力という言葉には、―残念ながら―時間もお金も含まれる。中高生は資金面での都合は各人に異なるが、時間については、少なくとも社会人と比べれば、一般的には自由度が高い。この自由な時間を音楽技術の向上に使うことができれば、後々の音楽の幅が広がるだろう。だから、中高6年間くらいであれば、コンクールに出場すること、そこでいい成績を残したいと思う素直で向上心に満ちあふれた気持ちを持つことは悪でも何でもないと思う。

ビデオ撮影について

 ビデオカメラで撮影をしている保護者の方が非常に多かった。愛する我が子を熱心に撮影するのは大変結構である。しかし私は彼/彼女らに、ぜひ彼/彼女らの子の音楽を聴いて頂きたく思う。彼/彼女らの子が望んでいるのは、ビデオを撮ってもらうことではなく、音楽を聴いて楽しんでもらうことだ。だから、録音・撮影業者を手配してしまうのも手だと思う。

男声合唱と私の思い出話について

 私事で恐縮である。といってもすでにほとんどが感想と云うよりは私の考える音楽の押しつけのようになってしまってはいるのではあるが。
 混声合唱団の男声諸君は、見事に歌っていたと思う。それが藝術的であるとはいえないだろうし、絶対的に考えて上手だとは思わないが、私が母校合唱部の男子1期生としてに歌ったものとは雲泥の差である。
 初めて歌ったのは「いざ起て戦人よ」であった。入部して2日後に部の保護者説明会で歌った。1年目の夏はコンクールの存在すら知らなかった(女子はイタリアの国際コンクールに出場していたのに!)。初めて聴いたコンクールはNHKの関東・甲信越ブロックコンクール。東京都コンクールの予選・本選もあったはずなのだが出場していたことすら知らなかった。そこで女子は母校初のNコン全国大会への出場を決めた。なおコンクールで最初に聴いたのは蓮沼善文先生の指揮する埼玉栄高校コーラス部で、自由曲は三善晃「生きる」だった。一団体目だったということもあり、ソニックシティーホールを鳴らし切れず量感に欠ける演奏だったが、非常に精緻で繊細な音楽は私に合唱の奥深さを教えてくれた。

 私が初めて出場したコンクールは東京ヴォーカルアンサンブルコンテストの一般部門だ。混声で出場するも受賞は叶わなかった。
 大きなコンクールに初めて出場したのは2年生の東京都合唱コンクールだ。男子は新入生が入らずに2年生5人。コンクールまでに2人増えたがそれでも7人。対する女子は総勢70人。アンバランスな部活であった。高等学校部門Aグループに女声合唱・混声合唱で出場した。全国行きを決めた女声と、ブービーの混声という結果に終わった。ある審査員の講評には、男子と女子でプロとアマくらいの差があると書かれた。

 母校合唱部の女子はもともと全日本合唱コンクール全国大会の常連校で、当時の関東では圧倒的な実力を有していたと思う。しかしながら、いつも彼女たちの側で練習し、よい音楽的影響を多分に受けていたはずの私は全く上達しなかった。昼休みはおろか授業の間の小休憩までも使って練習に練習を重ねたのに、である。そのような私と比べると、桐蔭学園混声合唱部の男子諸君は非常に上達が早いと思う。これからも優れた指導者の下で真摯に音楽に向き合って欲しい。

おわりに

学生らしい良い演奏会だった。随所にみられたパフォーマンスもよくできていたと思う。
等身大の飾らない歌、ひたむきに音楽に向き合うその姿は、本当に美しく、観ていて晴々とした気分になる。
 来年以降混声合唱団としてやっていくのか、それとも女子と混声と両立していくのは、部外者の私には全く解らないことではあるが、できれば両立して欲しいと思う。いずれにしても、ぜひまた演奏を聴きたい合唱団であることは間違いない。

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