【所感】scatola divoce教会コンサート・室内合唱団VOX GAUDIOSAぼちぼち春だよ、全員集合!

平成28年2月27日(土)

2つの演奏会を聴いた。

20160227_02

scatola divoce教会コンサート

平成28年2月20日(土)
17:30開場 18:00開演
日本聖公会 神田キリスト教会
指揮 森田悠介 blog
Vc 田辺純一 twitter

1st Stage
Giovanni Pierluigi da Palestrina Sicut lilium inter spinas (IMSLP)
グレゴリオ聖歌 Ave Regina caelorum
Knut Nystedt Immortal Bach
Henning Sommerro Til Ungdommen
Ēriks Ešenvalds A Drop in the Ocean

2nd Stage
Henrik Ødegaard (Web)  Krist stod op af døde
Johannes Brahms Warum ist das Licht gegeben dem Mühseligen? (IMSLP)
Ola Gjeilo (webSerenity (O Magnum mysterium)

混声合唱団scatola di voceとは

埼玉らしく少し雑だが潑溂とした音楽が特徴の合唱団である。…ではなく、音楽に対する姿勢がよく歌い方に表れている合唱団だ。よく歌い込まれているscatolaの演奏を聴くと、自分を含めて会場みんなで合唱したいという気持ちが沸き起こる。スカルプD ボーテではない。

室内合唱団VOX GAUDIOSAぼちぼち春だよ、全員集合!

平成28年2月21日(日)
15:30開場 16:00開演
早稲田奉仕園 スコットホール
指揮 松下耕 (Web※閲覧できない可能性あり)

~ルネサンスを歌う~
Giovanni Pierluigi da Palestrina Sicut cervus (IMSLP)
Tomas Luis de Victoria O magnum mysterium (IMSLP)
Jacques Arcadelt Il bianco e dolce cigno  (IMSLP)
Henning Sommerro Til Ungdommen (CPDL)
Mateo Flecha Que farem del pobre Joan

~ロシアを歌う~
Vladimir Ponomarev Концерт на день Серафима Саровского
Sergei Taneyev  Серенада
ロシア民謡 Пойду ль я, выйду ль я
ベラルーシ民謡 Купалинка
Sergei Rachmaninov Богородице Дѣво, радѹйсѧ

無伴奏混声合唱のための うたおり
松下耕 無伴奏混声合唱のための「うたおり」

尾花
薔薇

戦場
夕餉

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室内合唱団VOX GAUDIOSAとは

インドア系合唱団。アウトドア系合唱団があるのかは謎だ。あるとすればおそらくこんな感じの合唱団だろう。残念ながらWikipediaでガウディと検索しても項目はないが、AmazonならCDを購入できる。
冗談はさておき、室内合唱団VOX GAUDIOSAは指揮者であり作曲家である松下耕が常任指揮を務める合唱団だ。個人的な感想だが耕友会の中でも際だって演奏水準が高いように思う。彼/彼女らの演奏は良いところは徹底的に真似をすべきだし、彼/彼女らができないことは何としてでも出来るようになりたいと思うべき合唱団。筆者はガウディを日本を代表する合唱団の一つであると考えている。演奏を聴く機会があればぜひ聴いて欲しい合唱団。純正調のサウンドを標榜しているので、純正調のサウンドとは何ぞ?というはぜひ見学に行くことをおすすめする。

演奏会所感

両団ともGoogleフォームでアンケートを取っていた。団員に伝えたいことはそれぞれ書いたので、両団の演奏会に共通して感じたこととそこから考えたことを記す。

外声の大切さ
豊かな低音は音楽の魅力をより一層引き立ててくれる。ガウディの演奏会では西洋音楽では低音を担うパートが非常に重要なのだと再認識した。上部3声部には申し訳ないが、バスパートだけでももうそこに音楽が表出されるような感覚が沸き起こった。水を得た魚というが、魚はそもそも水がなければ動けないのである。当然水はバスパートである。
またソプラノの声が揃わないと、演奏の善し悪しを判断する以前の問題があるように感じてしまう。私が内声のパートを歌うことが多いからなのか、ソプラノが煌びやかに歌い上げてもらわないと、音楽が様にならないように感じた。あまりうまく説明できないのであるが…
もしかすると私が演奏会を聴きに行くとき、「外声は歌えて当たり前」ということを無意識に考えているのかもしれない。ハーモニーの厚みや美しさを作るのは多くの場合では内側のパートだから、であろうか。

選曲について
どちらも演奏会も教会で行われた。そのためか、どちらもパレストリーナからはじまり、他の音楽へと広がってゆくプログラムだった。
作品の魅力を理解し、さまざまな角度から音楽を聴く楽しみを提供する。器楽的な音楽から、複雑な和声、素朴な民謡、時にはあえて西洋音楽から逸脱することによって得られるリアリティーを伝えたいときだってあるだろう。選曲は何を聴者に伝えたいかが問われる。
ところで、西洋音楽では音楽の様式が非常に大切であり、それを無視した鑑賞はあり得ない。ルネサンスとロシア音楽では鑑賞の観点が変わったことを感じることによって、より音楽を楽しむことができる。前後の曲のつながりが断絶していると、それぞれの世界に没入できない。それで楽しむことができる人は演奏を聴きたいのではなく、その曲を聴きたいだけなのだと思う。曲にはそれぞれ鑑賞の作法があるのだ。
確かにレコードによっていつでも音楽が聴けるようになり、ウォークマンの登場によりどこでも音楽が聴けるようになり、CDの登場によってランダム再生という音楽の聴き方が生まれたように、もっと他の楽しみかたが発見されたり開発されることもある。
しかし、食事にもおいしくたべるための順番があるように、演奏会のすべてが表現の一環であるならば、演奏される曲の順序や内容は、鑑賞に際し非常に重要なのだ。

ところで、指揮者の松下耕氏・森田悠介氏は、とも日本国内ではあまり知られていない海外の良質な曲を選曲すると思う。演奏効果が高くコンクールで活躍しそうな曲から、末永く歌っていきたいとにかく美しい曲まで実に多彩だ。スカートラもガウディも演奏会の全体を貫く基本的な概念から逸れることなく、美しい曲を選曲していた。彼らの音楽においては、音が鳴り響いているときだけが演奏会ではないのである。全体が調和の取れた選曲で、なおかつ歌の魅力を提供し続けるプログラムを組むのは容易なことではない。両団のプログラムについて、特にすばらしいと思うことは、合唱団の特性に合った選曲を選んでいることだ。毎年全国各地で行われるコンクールの講評において、おそらく散々いわれていることであるが、合唱団に合った選曲をしなければ曲の魅力は引き出せない。当然、アマチュアの範囲内においてであるが、自分たちがやりたいこととできることとでバランスを取りながら選曲を行うことは、よい音楽生活を送ることに必要不可欠だろう。合唱団の成長に繋がる、聴者にとって未知の優れた曲を選曲できる両指揮者には敬服する。
楽譜を眺めることはできても読むことができない筆者のよう合唱人には、優良な曲を紹介してくれる存在が必要だ。

ここまで書いたがもしかしたらプログラムを構成したのは団員かもしれないし、全然別の人かもしれない。そうであったら申し訳ない。

曲解説について
松下耕氏と森田悠介氏は師弟関係にあり、その影響もあってか演奏会の進行方法も(特に今回は)似通っている。曲を演奏する前に曲の解説をする。曲に関して聴者に前知識を与えることで鑑賞の際の着眼点が与えられる。
この方法に関して悪いことだとは思わない。しかし、音楽でない時間があることによって集中力が削がれてしまったり、曲自体ではないことに興味がいってしまったりすることがあるので、なかなか難しいのもである。歌われる言葉を日本語で伝えられても、基督者でないので言葉のコンテクストが理解できない。そして、そもそも仕事でのやりとりのように、瞬時に理解するべき内容ではないために、そこで聞いた言葉を心で受け取ることができない。
もしかするとオペラのように進行する演奏会だったら、曲の演奏でない部分で内容を伝えることができるかもしれない。是非聴きに行きたいので、どこかでやってみて欲しい。
現実的な解決策として提案できるとすれば、演奏会中は口頭で解説を行い終演後にレジュメを配布することだと思う。プログラムに載せると、演奏とプログラムの主従関係が逆転してしまう人がでてくる。先に述べた集中力が削がれることの根本的解決にはならない。しかし、その演奏会を自分たちの演奏のことだけを考えるのではなく、聴者が演奏会で得た音楽経験をより豊かにするものとして役立つようにしたいと思うのであれば、解説の事後配布は有益であると思う。

宗教について
キリスト教徒でない人間がキリスト教の教会で演奏を聴く意味、歌う意味はなんだろうか、というのが2日続けて教会で演奏会を聴いたあとお率直な感想である。
筆者は神に祈ることはない。少なくとも筆者は「何のために歌っているのか」と問われて、神に捧げるためとはいわない。
筆者は、神を信望せずに西洋の神のための音楽の甘美なところだけを戴いている。こうした態度が道徳的な態度なのかどうかは置いておく。しかし、音楽は演奏しなくては成り立たないものであり、演奏するということは少なくともなんらかの意思がそこにある。演奏会はあらかじめ開催を決めて行うものだ。だから演奏者には何らかの意図がある。奏者の意図と聴者の意図が一致しないのは当然である。筆者は宗教音楽に、いわばタダ乗りして音楽を味わっているが、基督者はそういった状況にどういう風に接しているのだろう。
宗教と音楽については時間のあるときに考えたい。

音樂とは何であろうか。通常音樂とは感情の表現ともいわれ、思想の表現ともいわれ、感覺の表現ともいわれ、その他さまざまに定義されている。だが、音樂の直接の原動力となつているものは、生命力の感動に他ならない。

諸井三郎『音樂論ノート』創元社、昭和26年(1951年)

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