耕友会コンサートVol.6を聴いた感想

合唱部時代の友人が出演するということで耕友会コンサートVol.6を聴きにいった。

耕友会とは作曲家の松下耕氏が指揮をする合唱団で構成された団体で、国内最高水準の演奏をできる合唱団のひとつである。

松下耕指揮者生活25周年と書かれているとおり、松下氏は作曲家であるとともに指揮者でもある。私は演奏会や合唱祭などで彼の指揮を観たことがあるが、今回久し振りに観た彼の指揮は以前よりも数段進化していた。

プログラムステージ構成で、全て松下作品である。1stステージはオルガン、2ndステージはオルガンとオーケストラ、そして3rdステージと4thステージは混声合唱とオーケストラの曲であった。

オルガンについてはどんな楽器かもあまり理解しておらず、1stステージは良くわからなかった。もともとピアノやチェンバロ等の鍵盤楽器があまり好きではないということもあるが・・・

2ndステージの「オーケストラのための“De Profundis”―深き淵より―」は東京フィルハーモニー交響楽団の精巧なハーモニーがとても美しかった。

3rdステージの「混声合唱とオーケストラのためのカンタータ“水脈速み”」は日本語の詩にオーケストラ伴奏。
100人超のプロレベルの合唱団とプロオケによる演奏は大迫力だったが管弦楽には日本語がうまく溶けこまないように感じた。オケの方も歌の伴奏にしか聞こえないし、合唱はオケの大音響に掻き消されて歌本来の魅力が伝わらない。

対して4thステージの「混声合唱、ソリストとオーケストラのためのミサ第1番“Missa pro pace”―平和へのミサ―」は楽器と合唱が一体となり素晴らしい音楽を奏でていた。

ラテン語のテクストはオーケストラを飛び越えて直に耳に入ってくる。歌い手の疲れからか演奏の正確さは3rdステージに劣るものの、音楽が迫ってくるのを感じた。
作品自体は全ての曲を手放しで絶賛できるとは思わなかったが、Gloriaはとても美しく松下作品の中でも一際輝く作品だと思う。西洋音楽の美しさを存分に表わした傑作だと僕は思う。

ミサやアンコール曲は自分の通う大学の音楽部(合唱団とオケ)でも演奏できないかなと考えたりもしたが、弦や金管はアマチュア学生オケが演奏するにはかなり厳しい。

アンコール曲は「そのひとがうたうとき」。オーケストラ伴奏版は初めて聴いた。

トランペットが高らかに鳴り響き音楽が始まる。オケは若干練習不足なのか指揮とあまり合っていなかったような気がした。
合唱は比較的正確な音程で音楽が進む。高校2年生のときに広島の郵便貯金ホールで聴いた宮崎学園高等学校混声合唱団の名演を思い出した。
宮学の奏でた音の温もりには及ばないものの、透き通った歌2016声はホールを感動の渦を巻き起こした。

しかし編曲がとても良いのかというと疑問ではある。この辺りは編曲という行為の難しさなのだろう。

演奏について感じたこと

・やはりオケと合唱をまとめるのは難しさ

自分自身大学では毎年オーケストラと合唱団の合同演奏に参加しており、合唱とオケがともに演奏をする難しさは知っている。2管編成だと合唱団に100人以上は必要なのだということを肌で感じた。ホールを揺るがすffから張り詰めたpまで自在に操れるプロオケと、日本を代表する合唱団ですらバランスを取るのが難しいのだ。

また、オケ伴奏になると繊細な表現ができなくなってしまい、歌の持つ美しさを伝えきれていないように感じた。大味な合唱では日本語の微細なニュアンスが全く表現できない。ラテン語のテクストではオーケストラの響きを合唱の響きがある程度融合するのだが、それは言語の差なのだろうか。母音が響くラテン語の方が一体感があるような気がした。

指揮も合唱指揮とは異なり、フルオーケストラの指揮は音楽の流れの中で音楽を構成しなくてはならない。私が思うに、合唱はアゴーギクによる表現がとても重要な要素であるが、器楽曲ではそれができないのだ。そのためミサが本来持つ宗教性も表現できず、宗教芸術に昇華しきれていない。

・松下耕氏の指揮

正直な感想を述べると、松下氏の指揮はまだまだ一流であるとは思えない。もちろん明確な根拠があるわけではなくただの感想であるが。弁解するようだが私は松下氏の指揮が嫌いかというとそんなことはなく、むしろ好きである。彼の指揮はどこまでも熱い情熱を持っており、それでいて作品に明晰かつ積極的なアプローチを仕掛ける。彼の指揮をハンガリーの曲はどこまでも美しく、音楽の持つ魅力を余す所なく表現していているのである。だが自作曲を演奏するときの彼は二流指揮者である。作曲者としての視点が演奏者としての視点を奪っている。作品の細かいところを表現しようとするあまり彼の作品のダイナミクスを表現しきれていない。

一度世に放った彼の作品は、もはや彼の知っている側面だけがその作品の全てではないのである。

・松下作品、耕友会について

今回聴いた曲の中でも、“De Profundis”と“Missa pro pace”は完全とは言えないまでもなかなか素晴らしい曲だったと思う。しかし先程述べたように、作曲され世に出た作品は、作曲者だけのものではなく、作曲者の解釈が全てではないのである。そうであるならば、松下氏の作品も親元を離れ旅をする、旅をさせるべきである。別の指揮者によって演奏されることで、曲に新たな魅力が生まれることは大いにあるはずだ。

センセーショナルな曲やコンクールで歌うのに向いた曲は自然と広まるが、オーケストラ曲はなかなか演奏機会がない。名曲は星の数ほどあるからだ。わざわざ現代の作曲家が書いた新曲よりも、数々の名演を生み出した作品を演奏する方がいいと考える人少なくないはずだ。それにオケは編成や演奏プログラムに合唱団が考える以上に心を配る必要がある。その中で安くない著作権使用料を払ってまで演奏する価値のある曲に出会うのは難しい。

松下作品が演奏する価値がないとは思わないが、そもそもオーケストラの人間(それも、選曲に関われる人)が松下作品に出会うことが無ければ、その曲がどんなに美しくても演奏される機会が増えることはないのである。

だから耕友会にお願いしたい。松下作品を聴く機会をもっと増やして欲しい。まだまだ一般に手に入らない楽譜やCD音源がない松下作品はとても多い。松下先生に委嘱をお願いするのも結構だが、委嘱なぞしなくてもまだまだ素敵な作品がたくさんあることを日本の合唱人に伝えて欲しい。

また管弦楽曲を聴ける機会も増やして欲しい。“Missa pro pace”はいい曲だが、合唱団だけでは演奏できない。とても難しいことではあるが、オケの人々にも松下耕の魅力を、合唱・オーケストラ合同演奏の魅力を伝えて欲しい。

そして、他の指揮者や他の合唱団で松下氏の新曲がどんどん演奏されるようになっていくことを願う。そうすることで作品の魅力がさらに増すことになるだろうから。

厳しい評価をしたが、演奏会自体は非常に素晴らしものであった。今年聴きに行った演奏会で最も良い演奏会だった。
彼の作品が好きだからこそ、作品がもっともっと世界に羽ばたいて欲しいのである。

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