音楽を聴くということ
音楽を聴くというのはどういう行為だろうか。 演奏会を聴くそうすると演奏者は「私たちの思いを込めた歌を聴いてください」あるいは「素晴らしい音楽を聴いてください」などと云う言葉をよく耳にする。
そんな時私は 何を思えば良いのだろうか。
実際に云っていたとおりの素晴らしい演奏を聴くことは当然ある。
だがそんなことは年に数回もあれば良い方だ。
残念ながら 彼/彼女らの演奏から 彼らが感じている熱い想いなどを 私が感じ取ることはほとんどないし、彼/彼女らの演奏する曲が、「良い」 曲であったとしても 彼彼女らの 演奏によって それを体感できることはほとんどない。
音楽に奏者がいて、そこに奏者とは別に聴者がいるのであれば、演奏を通じてコミュニケーションが図られる。 そこでは当然奏者の思いが通じる場合もあるしそうでないこともある。
演奏というコミュニケーションは多分に一方的なものである。
奏者と聴者という立場である限りにおいて、 私たちは同じ方法で 意思の疎通をすることはできない 必ず一方が演奏という方法で、他方は別の方法を取る。
聴者は、演奏に対しては 演奏を聴く態度 もしくは 演奏を聞いた後の行動で示すことでしか奏者に自分の想いを伝えることはできない。
もちろん、想いを伝える必然性はない。
しかし、 演奏という行為に対する真摯な態度を 貫きたいという思いから私は自分の聴いた音楽には何らかのリアクションをしたいと考えている。
本当はそんな高尚な志はないのかもしれない。
音楽は時間芸術だ。つまらない音楽で人生を無駄にすれば腹が立つ。だから文句が云いたいだけなのかもしれない。 あるいは良い音楽を聴いた時は、 私自身がその時間を共有したという 気持ちを表したいだけなのかもしれない。
演奏がコミュニケーションなのだとすれば、演奏という方法で投げられたコミュニケーションのキャッチボールだ。しかし私は足で蹴り返すことしかできない。私は聴者だから。
だから 口頭で伝えるに白文字で伝えるにしろ 別の方法で コミュニケーションをとることしかできない。
互いが奏者であり聴者であれば演奏のキャッチボールをすることはできるだろう。
もちろんその場合においても、例えば 画家同士が絵画でもって対話をすることが どれほど難しい顔を想像すれば、奏者が互いの演奏をもって思いを伝えるということも非常に難しいということは分かるだろうが。
また音楽の時間性がそれを殊更困難にしている。だが、時間という制約がなかったとしても、 演奏でコミュニケーションをすることは非常に難しい。
なぜなら音楽は常に自らの意思表明であり続けるからだ。彼/彼女らの音楽は、しばしば意思を表明しているだけであり、そこには他者性を欠く。奏者に何かを問うているのではなく、云いたいことを行っているにすぎないのだ。そう、こんなことを云いだす私のように。
残念ながら巷で耳にすることのできる音楽はあまり芸術とは云えないものが多い。 譜に基づいて演奏を行っている限りにおいて、そこで奏でられる音は西洋における音楽芸術の作法に則ったものだ。しかし、その音のほとんどは芸術ではない。
聴者からのコミュニケーションを拒絶しているからだ。
芸術は批評に耐え得るものである。批判されることでそれは芸術となる。
野に咲くタンポポは私がそれを意識することで美となる。描かれたヒマワリは私のこころに何かを残したとき私にとってそれは芸術になる。両者は私と時間をともにする。私はタンポポに惹かれヒマワリに惹かれる。美があり芸術がある。(私のいう美は尺度であり、それがうつくしいとは限らない。)水芭蕉の花は歌われ、私はそれを聴く。その歌と時間をともにしたいと私が感じたとき、その歌は芸術になる。
私が時間をともにしたい理想の音楽であれば、それでいい。彼/彼女の表象を全面的に受け止める限りにおいて、私と彼/彼女の間にそれ以上のコミュニケーションは不要だからだ。
しかし現実にそういうことはほとんど起こり得ないだろう。だからいい部分、悪い部分についてあれこれ述べたくなるのかもしれない。
音楽は時間を消費する。しかし音楽は絵画と異なり再演できる。前の演奏がこの世から姿を消してしまう代わりに、次の演奏を行うことができる。
音を音楽=芸術であろうとする演奏にしたとき、それは時間芸術となる。時間芸術はそこに居合わせた者しか味わうことができない。映像や録音はあくまでも現代の技術ではあくまでも疑似体験にしかならない。似て非なるものだ。
しかし、音楽はその場で消費され消失されるために絵画にはない特徴が生じる。
それは音楽が引き起こす芸術の一回性と、そこから生まれ出づる再演の欲求だ。
ところで、芸術を観賞する際には2つの尺度がある。
ゲルニカの絵は、ゲルニカであるからその価値があるのだ。ゲルニカ2やゲルニカ3があったとしても、それはピカソがゲルニカを描いたときに衝動とは別の何かによって書いたに過ぎず、同じ価値を持つものではない。
絵画は世に存在している限り常に他の作品と比較され続ける。その意味では絵画には優劣が存在する。
ただ、芸術の価値はさまざまな観点がある。優劣ではなく、その作品にしかない固有性があればそれはその作品を輝かせる。
非常に多数が描かれた睡蓮。モネは機械ではないので、同じ作品は2つとない。作品同士の比較はできるが、個々の絵画には他の作品と比べようもない魅力が詰まっている(のであろう)。
音楽もこの2つの尺度は当てはまる部分が当然ある。
良し悪しも個々の魅力もあるが音楽の演奏はその場その時間でのみ味わうことができない特性上、直接の比較が出来ない。演奏同士の比較は必ず過去の記憶との比較になってしまう。
だから、優劣は常にもう存在かないものとの比較になるし、その演奏固有の魅力を感じたときには、すでにその演奏はこの世のものではない。
一度しか味わえないものが音楽なのである。
しかし、演奏は再度行うことができる。一度きりであることと前回と同様であることを同時に目指すことは少なくとも絵画にはできない。(建築や工芸品なら可能かも知れないがそこには買い手と売り手の間に密なコミュニケーションが生じる。)
この一回性と再現性が音楽の魅力である。
だから、また演奏を聴くときにはもっといい演奏を聴きたいと思うし、 それゆえ一方的に音楽を聴くだけではなく、私が演奏を聴いて感じたものを奏者に伝えたいと思うのである。
しかし現実には奏者は必ずしも聴者に感想を求めているわけではない。
非常に残念なことにコンサートホールで耳にする演奏の多くは自慰行為でしかない。人の耳に聴かせても自らは聴く耳を持たないのだ。本当に残念である。
演奏をしたにも関わらず評価されないということは辛いことである。
当然だ。
かくいう私自身、自分自身で聴きたいと思える演奏が出来たことはない。聴きたくない演奏を聴かせている張本人なのだから自己矛盾も甚だしい。
しかし、自慰のための音楽で世界を満たしてもいいのだろうか。
ところで、音楽は演奏という方法を取る限り時間芸術なので音楽を聴く限り私がいかに感じようとも、時間をともにしなければならないならないものである。
譜を見ることが音楽となるのであれば、それは音楽の時間性を超越する行為になるかもしれないが、そこでは奏者=聴者となる。芸術を観賞することができなくなるのだ。そこにおいては、見られる―見る、奏者―聴者の関係はなくなってしまう。
また、今回は全く考えが及ばなかったが、奏者―聴者には文学や絵画等他の原則に存在する作者の匿非性がない。そのことについてもまたの機会に考えてみたい。
以上、蒲団に籠ってAndroidから。音声認識を使いつつEvernoteに書きなぐった。