兼常清佐「修身ぶし」(昭和10年)について

平成26年12月8日(月)

兼松清佐の作品は青空文庫でいくつかの小品を読むことが出来ます。


兼常清佐「修身ぶし」(昭和10年)について、以下に引用したところについて、感じたことを書きました。

 私は子供の音楽の教育をも少し実地に役に立つものにしたらどうだろうと思う。音楽は自分で演奏したところで、それはなかなかうまく行くものではない。ただ時間の空費である。そして多少うまく行ったと思うのは、それは結局自分が何かしたという気持ちを満足するだけである。人から聞けば、何もそんなに大した仕事でも何でもない。音楽を自分で演奏して見るなどということは、よほど天分のある人だけにまかせておけばいい。それよりも一般の人に必要なのは音楽を聞いて、それを楽しむ心である。音楽は美しいものを聞かせさえすればいい。私は音楽はそういうものであると思う。

「修身ぶし」(『音楽と生活―兼常清佐随筆集―』杉本秀太郎編、岩波書店、平成4年)より

 まず賛同できることがあるとすれば、一般の人は音楽は聞くべきであるとという意見だと思います。兼常の論旨とは異なりますが、天才音楽家でない普通の人々は、人前で演奏するよりもまず、人が歌っているのをたくさん聴くべきだと思います。人前で演奏するということは誰かが自分の演奏を聴いてくれることを望んでいることに他なりません。もし自身がそう望むのであれば、少なくとも他者が同じ欲求を持って歌っている場に出向かないのはおかしな話だと思います。
 というのも、先に引用したように私たちの多くが演奏することは、せいぜい「自分が何かしたという気持ちを満足するだけ」の演奏です。私が聴いてきた限りにおいては合唱コンクールの全国大会で上位入賞する団体においてもそうだと思います。(それにはいくつかの理由があります。そこがコンクールという音楽の芸術性とは趣旨が異なる場であるということ、器楽のコンクールとは異なりほとんど全員がアマチュアであるということも関係しているとは思いますが。また、善し悪しの基準となる価値判断は人により異なるので、「どの団体も素晴らしい演奏ばかりだ」と感じる方を否定するものではありません。)
 誤解しないでいただきたいのですが、自分と同じくらいの実力の、つまりわたくしのような、多くの合唱愛好家と同じくらいへたくそな演奏を聴きに行きなさいといっているのではありません。演奏会は様々な趣旨により行われているものです。自分が歌う理由と異なる理由で歌われた歌を聴いても参考にはならないでしょう。それこそ時間の無駄だと思います。
 しかしながら、自分と同じ目的で、同じくらいの水準の演奏をする合唱団の演奏会に足を運ばないのであれば、それは自分自身が、自らの活動を評価していないことの査証を与えているに同義であると思います。もちろん、野球少年が必ずしもお父さんの草野球を観戦するわけではないのと同様に、観に行きたいと思うことが少ないのは仕方ないことだと思います。しかし、著名なピアニストであっても、上手な人に隠れて歌う合唱団員でも、舞台に立つ以上は演奏家なのです。演奏家であれば他の人の演奏をたくさん聴いて、そこで得たものを自らの骨肉としなければならないでしょう。ホールの舞台はカラオケではないのです。演奏することは他者の時間を戴くということです。歌いたいという、自分と同じ欲求を持つ人々の演奏をたくさん聴いて、どのような形でも(例え批判的にでも、)励まし合うことが重要なのだと思います。
 
 次に、同意できないことについてです。
 「音楽は美しいものを聞かせさえすればいい」という意見には全く同意できません。兼常は音楽を崇高な表現芸術であるように捉えているように見受けられます。もちろんそのことは全く否定しませんし、むしろ私はそうであるべきだと思っています。
 しかし乍ら、兼常が「国民の音楽」において音楽には鑑賞ための音楽と演奏のための音楽があると述べたように、音楽は庶民には手の届かない高貴な芸術である だ け ではないのです。つまり、音楽をするという行為は私たちに常に芸術性を希求することを強いているのではないのです。そのような至高の芸術性を伴わないことが前提となるような音楽においては、音楽は一つの「場」として機能するのです。
 芸術ではなく、何らかの目的のための手段としての音楽という形であれば、それは普く世界市民にとって享受すべきものであるように思います。
 神の崇高さ、民族の誇り、恋愛の素晴らしさ等々を歌ったり、執拗に繰り返されるリズムや言葉によって、その場にいる者高揚させたり一体感を持たせたりします。あるいは、音楽を聴いたときの思い出を呼び起こしながら歌ってみたり、自分への慰めであったりすることもあるでしょう。そのような音楽は音楽芸術と区別して考えてもいいと思いますし、兼常もまた、わたくしが今述べたような音楽を「演奏するための音楽」だとしているのだと思います。
 けれども、「場」として人間の生活のごくありふれたものとして一般化された音楽、とりわけ、わたくしの愛好する合唱について考えてみると、芸術性を抛棄したとたんに何が残るのかというと、非常に疑問が沸きます。
 というものは、わたくしの愛好する合唱は、あくまでも人に聴いてもらうための合唱、自分の歌を人と共有したいがための合唱です。しかしながら、わたくし自身の実力では、わたくしが聴きたい合唱には到達しないでしょう。この議論は卵が先か、鶏が先かの議論になってしまうので置いておきます。しかしながら「音楽を自分で演奏して見るなどということは、よほど天分のある人だけにまかせておけばいい。」という兼常の意見は、へたくそな演奏など聴きたくないと思う以上、その言葉がわたくし自身を強く批難しているのは否めません。
 また、わたくしの音楽が自分自身への慰めであったり、「自分が何かしたという気持ちを満足する」ための音楽であるのならば、合唱という、聴くのにも歌うのにも他人様の時間を使う音楽を選ぶ積極的な理由が見当たりません。達成感を味わうのであれば、迷惑のかからないようなジョギングなどのスポーツや、その他の趣味でも代替可能でしょう。他人からの承認欲求を得たいのであっっても、俳句だったり料理だったり、もう少し迷惑のかからない方法はいくらでもあると思います。
 それでもわたくしが合唱を歌いたい理由とはいったい何でしょうか。歌い続けながら考えていきたいです。

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