先日聴いた室内合唱団VOX GAUDIOSA の演奏会はとても心の温まる演奏会だった。
理由を考える
指揮者松下耕のメイン合唱団だから
いや違う。そんなことは正直どうでも良いだろう。演奏者が誰なのか。聴きに行く演奏会を検討するための重要な判断材料だ。だがそれは演奏を聴くまでの話である。
音楽に情熱を感じたから
これも違う。情熱なんて見えないものだ。音楽とは何かを定義すると、人によっては情熱は音楽の構成要素に含まれるだろう。しかし音は情熱ではない。耳で情熱は聴けない。
生の演奏を聴くなら音だけを楽しむのは勿体ない。そこに在る時間と空間そのものを楽しむべきだ。奏でられた音楽は、楽音だけではない。空気、ノイズ、客の歓声。ちょっとしたハプニングやいびきをかいて寝ている人のいびきき。演奏会はそこで起こるすべてを楽しむものである。
しかし、情熱は音ではない。情熱が音楽をよいものにするのであれば、よくない音楽は存在しない。
超絶クオリティーの演奏だったから。
私の記憶が確かならば、「超絶」ではないと思う。
確かにバスパートはかなりうまい。全体的なクオリティーは高い。しかし、BPOやVPOのシンフォニーを聴くような圧巻の演奏でもない。といいつつもBPOもVPOも聴いたことはないのだが…
選曲が良かった。
それも違う。自作自演曲をもう一度聴きたいとは思わなかった。ただ、明晰に理由を述べる能力は持ち合わせてないので楽曲批判はしない。
それでも良い演奏会だった、なぜだろうか。
演奏者との距離
スコットホールの狭い室内。奏者と聴者の距離感が絶妙であるのかもしれない。音楽はコミュニケーションだ。
風呂場で歌うときは自分自身への意思疎通を試みている。舞台においても彼の歌が自分自身へのコミュニケーションなのだとしたら、その人の音楽は聴きたくない。
観客の質が良い
最近感じることであるが、耕友会の演奏会に行っても耕友会の人が皆聴きに来ているというわけではないようだ。だが、それでもよい。スコットホールでともに時間を過ごした人々は、付き合いの延長で演奏会に足を運んだのではない。本当に音楽を聴きたくて早稲田に集った人々である。教会の物理的な影響だけではなく、観客が良い音楽を願っているからこそ、よい演奏会になったである。と、筆者は考える。
良い演奏会だ。だが、良い演奏会だから良い音楽だったのではない。空間芸術である演奏会を楽しむことができたことだけでは、この満足感は説明できないように感じる。
ポジティブな音楽
音楽は時間芸術だ。芸術の鑑賞すべてがそうだとはいえない。しかし、演奏を聴くことは常に時間の経過を伴う。
奇跡的な精度の演奏を期待することは難しい。要所要所で非の打ちどころがない音を出すことはできても、それは永続しない。(もしかすると、永続するとつまらないのかも知れないが、また違う論点の話なのでここではおいておく。)
通常、音楽を聴いていると、どこかで綻びを見せる。
ガウディの演奏は、この綻びが見えたときの潔さが魅力なのかもしれない。
ミスがあったときに、人はそのあとのことを考える。次に起こる現象をポジティブに期待させるか、あるいはネガティブを期待させるかが音楽を聴いた充足度にかかわるのかもしれない。一度信頼を失うと挽回するのは難しい。ガウディは、一曲目の歌い始めで数秒で、筆者を「この奏者は安心できるな」 と感じさせる。だからガウディの演奏会は心地よい。
たぶん、そうだ。